第二話「落ちる」Fly me to the moon~2 「落ちる」とりあえず、「ただいま~」という。 普段は仕事の都合もあって都内で暮らしている。 ここは実家だ。 私にもちょっと変わっているが家族がいるのだ。 「遅かったね。お疲れさん。」 キッチンから母の声がした。 「パーティーどうだった?ねぇねぇビョンホンカッコ良かった?」 「なんだ母さん知ってたの?気になるなら来れば良かったじゃない」 「だって今日は映画関係のお客様のパーティーだって響子から聞いてたし。 締め切りも近いのにふらふらしていらんないわよ。」 母は響子さんとは古くからの親友である。 事前にビョンホンが来ることを聞いていたらしい。 「で、どうだった?彼。」と母は興味深々だ。 「何?母さんまさかファンなの?でもファンだったらすべてを捨てて来るわよね。ん~~確かにかっこ良かったけど。」 と冷めているように私。 「あら、なんか冷たい言い方だね。私はファンじゃないけど友達に結構熱いファンが多いのよ。今日のことなんていったら響子の家潰されているね。」 彼女は自分で漬けた3年ものの梅酒をロックで飲みながら面白そうに言った。 「ところで原稿仕上がったの?」 意地悪く聞いてやった。 彼女は大学でフランス文学についての教鞭をとる傍らフランス文学の翻訳を仕事にしている。 私がフランス映画に魅せられたのも彼女の影響が多分にある。 「終わるわけないじゃん。今回の小説後半の盛り上がりがいまいちで気分が乗らないのよね」 と不満げに言った。 「お仕事ですからちゃんとやってください。大人でしょ?」 「は~~い。じゃ一発頑張りますか!」 といいながら首をコキコキさせて書斎として使っている四畳半の和室に戻っていった。 シャワーを浴びた後キッチンに戻って寝酒に梅酒を失敬していると父が麦茶を取りに現れた。 「揺ちゃん帰ってたの。久しぶりだね。 あっそうか今日は久ちゃんのとこのパーティーの手伝いだったっけか。 ヨンだかビョンだかっていう韓国人が来るって言ってたがどうだった?」 「お久しぶりです。なんだ、父さんもしってたの? (何で手伝いに行く私が知らなくて関係ないこの人たちが知ってるのよ。) まあ普通です。父さんも来てみれば良かったじゃない。暇だったんでしょ?」 「何か人をいつも暇人みたいに言ってくれるじゃないか。 今日は午前中取引先とミーティングが入っていたし映画関係のビジネスのパーティーだって聞いてたからね。 映画鑑賞が趣味のおじさんがひょっこりいるのもヤバイだろ。 見たいDVDもあったしね。」 彼は私が見るといつも暇そうにしている。 それはどうも人並み外れた集中力で仕事をこなすのが異常に早いからそう見えるらしいと最近わかった。 私が幼かった頃は商社マンとして世界各地を転々としていた彼はあるとき突然リタイアしてアンティークや雑貨・家具の輸入の仕事を始めた。 今ではいくつもの小さな会社を経営しているがどれも軌道に乗っていて結構儲かってるらしい。 優秀な部下がいるとしてもすべてを把握しておかなければなかなかそうはいかないだろう。 それなりに忙しいはずだ。 そのくせ久ちゃんことオーナー、久遠寺のおじさんとつるんで遊んで波乗りしたりしている。 朝まで遊んでくることもしばしばだ。 その他趣味でDVDを鑑賞したり、よく時間があるものだと感心する。 彼はそれをいかにも簡単そうにやってのけてしまうのだ。 自分の父ながら彼のエネルギーには驚かされることが多い。 久遠寺のおじさんといい私の父といいとても元気で仕事もプライベートも満喫している人を目の当たりにすると自分はこれからこんな風に楽しく歳を重ねられるのか反対に心配になってくるものだ。 「DVD面白かった?」あえて題名は聞かない。 前に聞いたときはアンガールズのお笑いライブだった。 いったい彼は何なのか。 32年付き合っても理解できない。 「いまいちだったな。松本君のボケが甘い」 というところを見ると今日はレギュラーだったらしい。 そうかと思うと私が翻訳の仕事を頼まれた映画の監督の過去作品を見たいと思うがなかなか見つからないとき、彼のDVDライブラリーに行くと発見できたりするのだ。 感想まで述べてくれちゃったりする。 マニアックな映画が好きになったのは多分彼の影響であろう。 「明日朝早く彰介たちと海に行くからもう寝るわ」 「気をつけていけよ」一応心配してくれているらしい。 「おやすみ」 こうして初めて彼と会った長い一日が終わった。 目覚ましは4時半に鳴った。 (ちょっと無謀だったかな) まだ3時間しか寝てない。 こういう強引な時間の使い方は父親譲りなのだろう。 私一人であればもっと遅くてもよかったのだがスーパースターイビョンホンが一緒である。 遅くても8時くらいには浜辺を撤収しないと大変な騒ぎになることは明らかだった。 化粧もろくにせず簡単に身支度をして迎えを待っていると玄関の呼び鈴が鳴った。 「おーい。起きたか」 彰介が失礼なことを言って迎えにきた。 隣にはビョンホンが元気そうににこやかな顔で立っていた。 (この人父さんと同類かもしれない)と瞬間的に思った。 「彰介こそよく起きられたね。いつも泥のように寝てるくせに」 「だってヒョンと波乗りできるなんて機会めったにないんだぜ。早くいくべ」 今からのりのりだ。 海へは車でほんの10分ほどだった。 行く道すがらビョンホンは我が家について尋ねてきた。 「揺さんの家は素敵な家だね。建ててからどのくらい?」 私の家は恐ろしく古い。築80年の洋館だ。 もちろん内装は何度かリフォームしたので生活はしやすいが 外観と家具調度類、建具は可能な限り昭和初期のままだ。 家族全員とても気に入っていて大切にしているのでほめられたことが妙 に嬉しかった。 「帰りに遊びに寄りますか」半分冗談で言った。 だって彼は忙しいスターだから勝手に寄り道なんてしないと思っていた。 「嬉しいな。是非よらせてもらうよ。彰、いいよね。」 「もちろん。ヒョンは今日の夜の飛行機に間に合えばいいんだったよね。 ヒョンがいいならOKだ。 空港までは送っていくし。 僕も久しぶりにおじさんおばさんに会いたいしね。 ここのうちの両親すごく個性的だからヒョン楽しみにね。」 「超楽しみです。」 彼はいたずらっぽく日本語で言った。 超って誰が教えたのだろう。 ビョンホンそれは正しい日本語ではないからね。 海に着くと早速時間を惜しんで海に入る。 残念ながらリゾート地ではないから透き通るような海というわけにはいかないが、人気のほとんどない早朝の海で遊ぶのは気持ちが良かった。 ビョンホンはマリンスポーツが得意らしい。 彼の鍛え上げられた体を見たとき純粋に綺麗だと思った。 足はちょっと短いかな。 失礼にもそんな観察を楽しんでいた。 2時間なんてあっという間だった。 いきつけのサーフショップでシャワーを借りて帰り支度をした。 ショップのマスターは彼が有名な俳優であることは知らないらしい。 私たちがよく連れてくる怪しげな友達を扱うのと同じくとてもフランクに話していた。 ビョンホンはそれがかえって嬉しかったらしく、たばこを小さくなるまで吸って口の中にしまう芸とかまで見せて喜んでいた。 マスターはコツを教えてくれと言って二人並んで練習していた。 ビョンホンも彼が気に入ったらしく帰り道「彼は良い人だ」と繰り返し言っていた。 母にはうちによるのが決まったときに電話しておいた。 彼女は徹夜明けで起きたままだった。 朝ごはんを2つ追加してもらうように頼んだ。 もちろんビョンホンの分だということを添えて。 彼女は料理が非常にうまい。しかも作るのも早い。 しかも食材にこだわる。 きっとビョンホンのために最高に美味しい朝食を用意してくれているに違いない。 「おかえりなさい。朝食の用意できてるわよ。 あら、ビョンホンさんね。 はじめまして。橘 綾と申します。 よろしくね。さあ上がって」 となんのためらいもなく母はビョンホンに日本語で話しかけた。 こんな時普通の母親なら 「揺の母です。娘がお世話になりました」。 とか言いそうなものだが昔から彼女は絶対に「揺の母です。」とは自己紹介しない。 娘と自分は全く別の人格でどちらかに従属する関係にはないと私が幼い頃から考えている節があった。変わった母である。 朝食は広い庭のテラスに用意されていた。 籐のテーブルセットの上に純和食メニューがずらっと並べられていた。 不思議な風景だったが我が家ではありがちな風景だった。 父は既にテーブルについていた。 彼はビョンホンを見ると 「アニョンハセヨ チョヌンタチバナコウタロウイムニダ」 とハングルで話し始めた。 あっけにとられる我々を尻目に流暢な韓国語でビョンホンと会話をしている。 (恐るべし・・) 父に驚かされるのはいつものことだが今回は目が点だった。 母はわれに帰り 「さあどうぞ。めしあがれ」と自信ありげに言った。 「いただきます」我々も席についた。 案の定彼女の手料理はとても美味しい。 地元の干物・厚焼き玉子・酢の物・味噌汁・自家製の漬物などなどシンプルではあるがどれも味が良かった。 ビョンホンも彰介も気に入ったようである。 彼は本当に美味しそうに食事をする。 見ていてとても気持ちが良かった。 食事中日本と韓国の食文化の違いについて会話が弾んだ。 ビョンホンは特に好き嫌いがなく和食では丼ものと鯛のかぶと煮が好きだと言った。 鯛のかぶと煮なんて日本人でもなかなか好物にあげない代物だ 。 よほど美味しいのを食べたのだろう。 食べてみたいと思った。 我が家はというと食卓に韓国料理が並んだことほとんどなかった。 今は韓国ブームということもあって韓国食材が手軽に手に入るようになったようだが韓流と無縁の生活をしてきた我が家では焼肉のときにキムチが出るくらいの扱いだった。 「一般的な韓国の家庭料理ってどんなものなんですか」 とビョンホンにたずねると 「じゃあ今日の昼僕が作って皆さんにご馳走しますよ」 と彼は事も無げに言った。 「買い物は付き合ってくださいね。」彼は楽しそうに笑った。 朝食の後ビョンホンはしばらく父のDVDライブラリーに拉致された。 二人で楽しそうに話している声が少しあいた部屋のドアから漏れてきた。 「おじさん、韓国語ペラペラですね。」彰介が母に言った。 「昔とった杵柄でしょ。一応商社マンで世界を飛び回っていたからどっかで覚えたんじゃないの?」 とまるで他人事のように答えた。 我が家では一事が万事そうだ。 それぞれの生活に干渉しない主義が徹底している。 傍から見ると冷たい家族に見えるかもしれないが今は冷たいと感じることはない。むしろ一人前の人格として扱われることが心地よい。 正直子どもの頃はなんて冷たい親だろうと思ったときもある。 親の仕事の都合で連れまわしておいてどこへ言っても転校先には一人で放り込まれた。 言葉も通じない中で最初はとても不安だったことを今でも覚えている。 でもそれも慣れるものでそういうものだと思うと生きるために人一倍語学を覚えるのが早くなり、観察力も鋭くなって人の感情について敏感に感じ取れるようになっていた。 両親もそうなることを期待していたのだろうと思う。 今となっては突き放してくれた両親に感謝している。 「へぇ~やっぱりここの家の人は皆面白い」彰介は言った。 そのうちにビョンホンが父の部屋からDVDを何枚か抱えて出てきた。 「見たいと思っていたけどなかなか手に入らないDVDがあってね。 お父さんが持っていらして僕に譲ってくれたんだ。」 ビョンホンは宝物をもらった少年のように嬉しそうに笑っていた。 後ろにはいつの間に手に入れたのかイビョンホンのDVDに直筆サインをもらって嬉しそうにしている父の姿があった。ヨン様と区別がつかないようなこと言っていたくせに。やっぱり父は謎である。 「揺さん、お買い物に行きましょう。彰は運転手さんね。」 ビョンホンはいつ覚えたのか日本語でそう言った。 逗子の駅前にも韓流の波は届いていた。 「オモニの店 手作りキムチ専門店」 と書かれた看板を発見した。 あまり歩いていては大騒ぎになってしまうのでさっさと買わねば。 ビョンホンがキムチチャーハンとユッケジャンスープを作るというのでオモニの店で自家製キムチとコチュジャンという韓国の味噌を買い、八百屋と肉屋で野菜と肉を買った。 ビョンホンは日本に来てこんな片田舎で買い物をしたことはないらしく (しかも生鮮食料品は買わないっしょ!)完全に面白がっていた。 サングラスをかけて帽子を深くかぶった怪しげなキムチを買う韓国人がイビョンホンだとオモニの店のおばさんは気付いただろうか。 急いで帰った私たちは早速料理に取り掛かった。 私は助手である。 ビョンホンは手際よく料理を仕上げていく。 「時間があまりないから簡単なものでごめんね。」 といいながらささっと作ってしまう。 ねぎを持ったビョンホンは包丁を片手にニッっと笑って刻み始めた。 彼の包丁さばきは実に華麗だった。 目を塞ぎたくなるほどのスピードでねぎを輪切りにしていく。 刻み終えた彼は自慢げに私たちに向かって微笑んだ。可愛すぎる。 この人はいったいどんな人なのか・・・こんなくだらない出来事なのに私の中で彼をもっと知りたいと思う気持ちが芽生え始めていた。 結局刻んだねぎは半分くらいしか使わなかった。 パフォーマンスだったのね。 料理はとても美味しかった。 キムチが美味しいせいも多分にあるだろうが、スープもなかなかの出来だ。 暑い季節に辛いものをフーフー食べるのは大好きだ。 皆が口々に美味しいと誉めるのでビョンホンは少し照れながらでもとても嬉しそうだった。 彼は片付けも手伝ってくれた。 二人で並んで皿を洗いながらハングルを少し教えてもらった。 「こんにちは。」と「これは韓国語でなんと言いますか。」を教えてもらい、いろいろなものを指しては名前を聞いた。 難しいが面白い。 新しい語学を学ぶときの喜びを少し思い出した。 彼は楽しそうにガハガハ笑いながら相手をしてくれた。 私もガハガハ笑った。 彰介は食事が済んですぐビョンホンのマネージャーと事務的な打ち合わせがあるからといってしぶしぶ久遠寺邸に戻っていった。 彼は完全にビョンホンに惚れているようだ。 帰り際に「ヒョンを誘惑するなよ!」と言い残していった。 ビョンホンは今日は成田から出発するらしい。 今回の来日はほとんどプライベートなものに近かったにもかかわらず既に来日情報が流れ始めていたようだ。 夜遅い便を狙って空港到着後すぐに出発するらしい。 人気者は大変だ。 成田までは距離があるので夕方には出発しなくてはいけない。 今日は一日ビョンホンをお借りしてしまったのでいい加減に響子さんに返さないと後が怖い。 母の話だと響子さんはどうも熱烈な隠れビョンホンファンらしい。 オーナーが焼きもちを焼くので内緒なんだとか。おば様たちも大変である。 我が家を去るときビョンホンは父と母とハグして別れを惜しんだ。 父はハングルで何か話していたが私には到底わからない。 母はあくまでも日本語でまた遊びに来いとしつこく言っていた。 わかっているのかいないのか、ビョンホンは一生懸命笑って頷いていた。 父も通訳でもしてやればいいのに。 笑ってみているだけだった。 両親と別れてビョンホンを久遠寺家まで送っていく短い道すがら私たちはあまり話さなかった。 この時彼がどんな気持ちだったのかは知る由もないが私は今までに感じたことのない妙な感覚に襲われていた。 言葉を口にすると今日の出来事が全部夢になってしまう。 そんな気がして黙ったままただ歩いた。 久遠寺家の門の近くまで来たとき最初に言葉を口にしたのは彼だった。 「君と君の家族のおかげでとても楽しい一日だった。 ありがとう。 日本に来たらまた遊びに行ってもいいかな。」 彼はゆっくりとした英語で言った。 「もちろん。私も楽しかった。ありがとう。」 私はそう答えるのが精一杯だった。 彼は右手を差し出した。 私はその手をそっと握った。 想像していたよりもはるかにやさしいあたたかい手だった。 彼はにっこり笑うと手を軽く振りながら門に入っていった。 後姿を見送った後、帰ろうとすると後ろから「揺さん!」と呼ばれた。 あわてて振り返るといたずらっぽく門から首だけ出した彼が 「韓国に来たら絶対連絡して!僕の家に遊びにおいで!」といった。 「もちろん!元気でね!」と私は自分としては飛び切りの笑顔で答えた。 帰り道何故だか涙が出てきた。 「私、どうしちゃったんだろう。」 ジャンル別一覧
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